「決めない」ことは怠惰なようで、最も勇気を試されること。
こんにちは、たっくんです。
古今東西、富や、名誉や地位を得て成功していると世間が思うような人は、みんな「突き抜ける力」を持っている気がします。
第17回 みんな“多動力”を履き違えている|箕輪編集室・公式|note
では、その逆で「突き抜けない力」っていうものの正体も考えてみると面白いなと。
社会的抹殺からの脱走
社会のなかで、人は必ず何者かになります。社会的な役割を持って生きています。(それが与えられるものであれ、掴み取ったものであれ)
何者かになるというのは、就職をしたり、会社を作ったりということだけではないのかなと。
もっと大きな社会的なプレッシャー=何者かであらねばならないという認識が強くあると思います。
適切な表現ではないのかもしれませんし、一概には言えませんが、この時代のこの国で、餓死をするというのは、起こってはいけないなと。
生活保護を受ければいいし、SNSで助けを求めることができます。
もちろん、それはその日暮らし的な考え方で持続可能な生き方ではありません。
ただ、多くの人が声を上げる前に、命を落としているという事実。
僕らには命よりも惜しいものがあるのかもしれません。
僕らは自分自身の生命の維持よりも、社会的に抹殺されることを何よりも恐れているのかもしれません。
「決めない」という勇気
その意味で、何者でもない、何もしていない、何も決めないというのは、すごく勇気のいることです。
働いてなければ、社会から白い目で見られる。
家で何もせずぼーっとしていれば、何かしなきゃという、得体の知れない焦燥感に駆られる。
そういう状況に陥ってしまったという人が圧倒的に多数でしょう。
けれどきっと、自ら何者でもない道にいる人も存在するはず。
ある意味でそんな人は、成功者と呼ばれる人よりもずっとずっと少ないのかもしれません。
ある意味で達観し、超越したその感覚を僕らは見習えるのかもしれません。
そしてそんな勇気は、決める側の人にとっても役に立つリソースになりうるのかなぁと。
皆さんはどう思いますか?