自由は与えられるものではなく、勝ち取るもの。
こんにちは、たっくんです。
高円寺について、面白い考察をしている記事を読んでいました。
いつかは必ず卒業しなければならない街、高円寺「街に答えのない世界に飛び込んだ若者の葛藤や不安が滲み出てる。」 | ハウスコム株式会社
高円寺や、若者の葛藤といった文脈とはあまり関係がないのですが、なるほどなあと思う引用があったので、シェアしたいと思います。
子どもの描く絵には揺さぶられない?
岡本太郎は子供が描く絵は自由でのびのびしていて魅力的かもしれないけど、成熟した大人の感情が揺さぶられるかと言われれば、そんなことはないのだと言います。
その理由について、子供が持っている自由とは「自分で勝ち取ったもの」ではなく、ただ単に「与えられたもの」で、許された自由の中での表現に魅力はあったとしても、それが何か人を感情的に動かす力にはなり得ないのだと断言しているのです。
(引用:いつかは必ず卒業しなければならない街、高円寺「街に答えのない世界に飛び込んだ若者の葛藤や不安が滲み出てる。」 | ハウスコム株式会社)
憧れるのは、『自分も』ではなく、『自分でも!』?
僕らはしばし、自由を謳歌している人に憧れます。(実際はそう見えるだけであっても)
旅をしながら働く人、在宅勤務で満員電車とは無縁の人、大金持ちで、好きな時に好きなものを買える人・・・
僕らはきっと、そうでないから憧れるんだなと。つまり、人は自分が経験していないことに対して憧れの念を抱くのだと思います。
だからこそ岡本太郎さんが言ったように、僕らは子どもの絵には、心を揺さぶられないのかもしれません。
なぜなら、子どもののころの『与えられた自由』は、僕らのほとんどが享受し、経験しているものだから。
逆に、大人になってから、理不尽や不都合や不安、批判や罵倒に苦しみながらも、耐え抜いた先にある『自由』は誰しもが得られるものではありません。
適性や努力、嗜好や思考といった変数が絡み合いながら、実現される自由なんです。
だからこそ、僕らはそういった人たちのストーリーに憧れるんでしょう。
インターネットが発達して、『自由』を謳歌する人が可視化されやすくなりました。だからこそ、「自分でも!」となおさら憧れやすくなるんだと思います。
僕らは『自分も』経験したことには、憧れも嫉妬もしません。でも、『自分でも!』と思うものには、憧れや嫉妬を抱くものなのでしょう。
勝ち取られた自由を、自分でも勝ち取れるかもしれないと思い、高円寺の若者もまた生きているんだと思います。
なんだかざっくりとしたまとめになりましたが、皆さんはどう思いますか?